沖縄国際海洋博覧会

 1972年(昭和47年)5月12日に、沖縄の施政権が米国から日本へ返還されました(沖縄の復帰、沖縄本土復帰)。復帰に伴い、琉球大学も文部省に移管され、国立大学の一員に加えられることになりました。復帰前の琉球大学は、「8ミリ大学(映画フィルムカメラが35ミリであった時代に、ホームムービー・フィルカメラは「8ミリカメラ」と呼ばれていた)」と揶揄されるほど、施設設備面で本土国立大学との格差は非常に大きいものがありました。文部省移管に合わせて琉球大学の機能強化が検討され、沖縄の特性を発揮することができる新しい組織設計が行われました。その目玉が、琉球大学の海洋学部・海洋学科構想です。

 1975年には、沖縄の本土復帰を記念して、沖縄国際海洋博覧会(EXPO ’75)が本部町(もとぶ)で開催されました。海に囲まれた日本の未来像として「海洋国家」を掲げた海洋万国博覧会でした。同じ年に、国立大学では初なる「海洋学科」が琉球大学・理学部に設置されました。これまでの海洋生物学分野に加えて、海洋物理学や海洋化学、気象学などの地球惑星科学の分野が理学部に加わり、琉球大学の教育研究の機能強化が実施されました。

 その後、1996年の学科再編の際に、海洋学科は、物質地球科学科・地学系、海洋自然科学科・化学系および海洋自然科学科・生物系に再編され、現在に至っています。「海洋」の冠は、海洋自然科学科(学部)、海洋自然科学専攻(博士前期課程)や海洋環境学専攻(博士後期課程)に受け継がれ、琉球大学の海洋教育研究の伝統を守っています。

 沖縄国際海洋博覧会は、「海 – その望ましい未来」を統一テーマとして、世界36ヵ国が参加した当時の史上最大規模の国際博覧会でした。新交通システム(エキスポ未来カー)が日本で初めて試験的に導入され、海上には未来の洋上都市アクアポリスが浮かんでいました。沖縄海洋博開催地と那覇を繋ぐため、沖縄に高速道路が建設され、観光インフラの整備と土地利用開発が急ピッチで進んだ時代でした。

 この沖縄国際海洋博覧会の跡地が、現在の国営沖縄記念公園(海洋博公園、Ocean EXPO Park)です。海洋博公園内にある沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館は、沖縄観光の人気スポットとして世界的に有名になりました。沖縄国際海洋博覧会の構成や演出をおこなったのは沖縄出身の金城哲夫(故人)です。

海洋博公園

沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館

海洋文化館

 金城哲夫は、ウルトラマンの生みの親としても知られている脚本家で、沖縄本土復帰に合わせるように、円谷プロを退社して沖縄に戻ってきていました。沖縄出身の金城哲夫の複雑な思いは、初代ウルトラマンとウルトラセブンの各エピソードに見ることができます。1976年の沖縄国際海洋博覧会の閉会式演出後に不慮の事故のため37歳の若さで亡くなりました。ウルトラマンの世界観は、金城哲夫と供に初期シリーズの脚本を手がけた同郷の上原正三(故人)であることから、「ウルトラマンの故郷は沖縄」と認知されるようになりました。今では、ウルトラマン生誕地として、海外からも多くの観光客が訪れています。

金城哲夫ウェブ資料館(南風原町観光協会公式サイト)

 ウルトラマンと並んで世界的なポップカルチャーアイコンである怪獣王ゴジラも沖縄の本土復帰と関わりがあります。1974年に公開されたゴジラシリーズの第14作「ゴジラ対メカゴジラ」は、沖縄の本土復帰記念映画の一つです。沖縄本島を舞台として製作され、物語は沖縄国際海洋博建設現場から始まります。ゴジラの味方として、沖縄の守り神怪獣「キングシーサー」も登場します。劇中には、当時の右側通行の様子や、琉球大学首里キャンパス(劇中では首里大学)、宇宙人の秘密基地として未整備であった玉泉洞(ぎょくせんどう)を見ることができます。

おきなわワールド・玉泉洞

 

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