沿革

  • 1950年 琉球列島米国民政府令立琉球大学開学(英語学部、教育学部、社会科学部、理学部、農学部、応用学芸学部の6学部)
  • 1950年 理学部に数学専攻、物理専攻、化学専攻、生物専攻設置
  • 1951年 米国教育評議会及び陸軍省の教育計画により、本学にミシガン州立大学教授団が派遣(第1回ミシガン・ミッション)
  • 1952年 理学部を、数学科、物理学科、化学科、生物学科に編成
  • 1954年 理学部を文理学部(11学科)に学部改組
  • 1958年 水産人材育成を目的として海洋生物学コース設置
  • 1958年 文理学部を13学科に学科改組
  • 1966年 琉球政府立琉球大学
  • 1967年 文理学部を理工学部(数学科、物理学科、化学科、生物学科、機械工学科、土木工学科、電子工学科)へ学部改編
  • 1971年 理工学部附属臨海実験所(現熱帯生物圏研究センター・瀬底研究施設)設置
  • 1972年 沖縄本土復帰・国立大学琉球大学
  • 1974年 放射性同位元素取扱施設(現研究基盤センター・RI施設)設置
  • 1975年 水産学および海洋・地球科学の人材育成を目的として、理工学部に国立大学初の海洋学科設置
  • 1979年 理工学部を理学部に分離改組
  • 1980年 大学院理学研究科(修士課程)(数学専攻、物理学専攻、化学専攻、生物学専攻、海洋学専攻)設置
  • 1981年 理学部附属臨海実験所を熱帯海洋科学センターに拡充
  • 1990年 情報系人材育成を目的として、数学科に基礎情報学講座設置
  • 1991年 情報系人材育成を目的として、物理学科に計算機科学講座設置
  • 1991年 極低温センター(現研究基盤センター・極低温施設)設置
  • 1994年 熱帯海洋科学センター、理学部、農学部附属熱帯農学研究施設の統合により、全国共同利用施設・熱帯生物圏研究センターを設置
  • 1996年 理学部5学科(数学科、物理学科、化学科、生物学科、海洋学科)を3学科(数理科学科、物質地球科学科、海洋自然科学科)に学科改組
  • 1996年 機器分析センター(現研究基盤センター・機器分析施設)設置
  • 1997年 教養部廃止に伴って、理系教員が理学部へ編入
  • 1998年 理学研究科の修士課程を理工学研究科の博士前期課程(数理科学専攻、物質地球科学専攻、海洋自然科学専攻)に再編成
  • 1998年 理工学研究科の博士後期課程に海洋環境学専攻設置
  • 2001年 トロピカルバイオサイエンス研究の推進を目的として、遺伝子実験センター(現熱帯生物圏研究センター・分子生命科学研究施設)設置
  • 2004年 国立大学法人琉球大学
  • 2004年 21世紀COEプログラム「サンゴ礁島嶼系の生物多様性の総合解析」採択
  • 2008年 亜熱帯島嶼科学研究拠点を担う若手研究者育成プログラム(ライジングスター・プログラム)採択
  • 2011年 国際サンゴ礁研究教育ハブ形成プロジェクト
  • 2015年 高度統合型熱帯海洋科学技術イノベーション創出研究拠点形成事業(ORCHIDS)

廃藩置県(琉球処分)によって「琉球国」が「沖縄県」となって以降、1950年に米国琉球軍政府によって琉球大学が設立されるまで、沖縄には「大学」に相当する高等教育機関が設置されることはなかった。琉球国にも固有の教育制度があった。琉球の学校制度は久米村の明倫堂が始まりとされ、士族身分階級の教育機関として機能していた。その他に、国学や三平等学校が設置され、各村にも村学校所が設立されていた。廃琉置県(琉球処分)以降、沖縄県に中学校および師範学校が設置されたが、高等学校、高等専門学校等の高等教育機関はなかった。1925年(大正14年)になって、沖縄県に国立高等水産学校を設置する請願が帝国議会に提出されている。議会で可決されたものの予算化されることはなく、高等教育機関設置運動は長期化することとなった。

沖縄県に大学を新設する動きは、終戦後に国外で始まっている。戦後、沖縄から米国に留学生を送る運動が、ハワイの「沖縄救済更生会」でおこなわれた。これが、後に沖縄に大学を設置する運動へと発展している。1947年(昭和22年)に、湧川清栄が中心となって大学設立計画案が策定された。これが、琉球大学設立運動の契機となったと伝えられている。第一回給費留学生の養成と「沖縄大学(仮称)」の設立を、二大事業として運動を展開していった。沖縄大学(現琉球大学)のモデルとして考えていたのは、湧川の母校カレッジ・オブ・ハワイ(現ハワイ大学)である。

湧川らは、大学の目的として「技術者、科学者、社会指導者の養成」をあげており、人材育成をとおして、「経済復興」、「科学的農業」、「沖縄の手工芸業」に貢献することを考えていた。女子教育においては、「家政経済」、「社会事業」、「教育学等の実践教育」に重きを置く構想であった。科学を実践的に応用することによって、大学が「新社会の建設」に寄与する考えであったようである。同時に、「一般民衆の文化の向上に資する」ことも設置目的としていた。設備予算総額は57万ドル、ハワイで35万ドル、沖縄県人社会から20万ドル、一般社会から15万ドル、北米南米から20万ドルを集める計画であった。

ハワイ沖縄更生会の二大事業は、1947年(昭和22年)の「うるま新報」で報じられた。志喜屋沖縄民政府初代知事は、ハワイからの大学設置計画案に接し、以下の様な言葉を残している。

古人曰く、一年の計は食を樹るにあり、十年の計は木を樹るにあり、百年の計は人を樹るにありと。然り国家永遠の計は人物育成にあり、いわんやこの焦土と化せし将来の沖縄をになう子女においてや。吾々の子孫をして世界文明に伍せしめ、はたまた世界人類に貢献すべき人材を養育すべく、一日も早く所期の目的に勇往せられん事をひとえに御願い申し上げ候。

志喜屋は、その後、1950年(昭和25年)に琉球大学の初代学長となる。

 

太平洋戦争終結後、米国教育評議会会長のアーサー・アダムは、米国の20大学に書簡を送り、沖縄に創設されたばかりの琉球大学の支援を要請していた。書簡の中で、「琉球大学はアメリカ合衆国のランドグラント大学をモデルとして創設された」と述べている。1951年(昭和26年)の米国教育評議会において、応募のあった7大学から、要件の全てを満たすミシガン州立大学(当時はMichigan State College 、後にMichigan State University)が満場一致で選ばれ、琉球大学の支援校となった。農業、家政、英語などの実際的な分野を重視していたようである。第一回派遣のミシガン・ミッション(MSC Mission、後にMSU Mission)一団は、1951年(昭和26年)に来学し、開学間もない琉球大学の教育研究に助力している。1951年(昭和26年)から始まったミシガン・ミッションは1968年(昭和43年)まで続き、ミシガン州立大学からは延べ51人の教授が派遣された。初期のミシガン・ミッションの目的は、高等教育に関する様々な助言を与えることと供に、大学の教育と研究の成果を学外に普及する「学外普及活動(エクステンション活動)」を推進することであった。学外普及活動は、米国ランドグラント大学の特色の一つであり、我が国における琉球大学の特異性の原点となっている。当時のハンナ・ミシガン州立大学学長は、ランドグランド大学の基本的使命(大学のミッション)について、派遣団に以下の様な書簡を残している。

「ランドグラント大学は、実用的な教育が全ての人々にとって直接に関係するものであり、このような教育から全ての人々が利益を享受するものであることを効果的に実践する。人々の欲求やニーズを知ることや、大学の教員と全ての職業分野の人々が直接に接することは絶対に必要なことであり、そうすることによってのみ、人々が直面する問題を大学に持ち帰ることが可能となり、大学の有する資源でもって人々のニーズに対応することができるのである。」

琉球大学設立時の6学部の一つである理学部は、ランドグラント大学の伝統を継承しており、教授と研究のみを大学の使命とせず、社会に奉仕する普及事業および研究を重視してきた。そのため、国立大学では珍しい水産学分野のような応用科学分野研究や、地球温暖化および気候変動のような地球環境問題に対しても研究教育と啓発活動を重視している。

 

<参考文献>

「琉球大学四十年史」(1990)琉球大学
「琉球大学五十年史」(2000)琉球大学
「琉球大学物語1947-1972」(2010)山里勝己、琉球新報社
「国立大学法人琉球大学六十年史」(2010)琉球大学

千原(せんばる)キャンパス内の首里の杜
1950年に米軍当局により建立された琉球大学設立記念碑
1985年に首里から西原へのキャンパス移転完了した際に設置された首里の杜
開学50周年記念事業として整備された首里の杜

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